咸臨丸(かんりんまる)
 

幕末から明治初期、人は太平洋の向こうの情報を何日くらいかかって手に入れたのだろう。
江戸時代末期、ペリーの黒船が2度目に来航した1854年、日本は日米和親条約を結び、下田と函館の開港を約束した。1858年には日米修好通商条約をアメリカ合衆国と結んでいる。幕府として、正式に各大名にも開港と事実上の開国を知らせると同時に、批准書(ひじゅんしょ=他国との条約を正式に自国内で承認すること)を作成し、これをアメリカに届けることになった。

日米修好通商条約は大老の井伊直弼が賛成・推進したというよりも、アヘン戦争後の中国の植民地化の激しさや総領事ハリスの「英仏が戦争を仕掛けてくる前に、我がアメリカを味方につけると良い」など巧みな交渉の産物であった。ただし、天皇の正式な許可を得ていないことは後の安政の大獄へとつながる。

批准書を合衆国へ届ける新見正興(にいみまさおき)らは、ある記録では1860年(万延元年)1月13日に品川を出発し、太平洋を越えた。新見正興が乗船したのは合衆国のポーハタン号、それに同行した咸臨丸(前長50m)には勝海舟や福沢諭吉が乗り、西海岸に到着し、合衆国軍の船に乗り換えてパナマ地峡を経由し、その使命を果たして無事に戻ってきたのは6月15日だった。(すべて旧暦による)

今は15時間ほどでアメリカ東海岸に到着できる。この時代は往路45日間程度が必要で、復路と合わせて83日間の咸臨丸の航行はアメリカ軍の航海士が同乗して、果たされたことである。さて、話を戻すと、つまりは1か月以上をかけて情報が運ばれていった時代であった。

現代は、大陸の東端で誰かがつぶやけば瞬時に世界を一周する。聞きたくないことも、聞く必要のないことも、うれしい知らせも悲惨な状況も、情報は湯水のように入ってくる。これからの時代を生き抜く力とは、正しい情報を選ぶことだ、と思っているが、時には、自分の目標に向かって「なるべく聴かない力」「ブレない強さ」が必要かもしれない、とつぶやいている。        

中学校長 賞雅 技子